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上戸彩主演、インストールDVDコレクターズ・エディション

自 然 体 綿 矢 り さ


★このページの趣旨、目的、等について。
・綿矢りさ文学を個人的に応援する自己満足ページ。
・だから、綿矢りさ、出版社などとは一切無関係。
・綿矢りさの作品の魅力を様々な角度から検証し、より深く作品の良さを味わう。
・作品の中の悪い部分については建設的批判としてソフトに指摘し、次回作以降での更なる向上を願う。
・作家を育てるのは編集者であり読者である、という見地から、一読者の立場で綿矢りさの背中を押す。
・これから綿矢文学に挑戦しようという人にとっての、ちょっとした案内書になれれば幸い。
・国語の偏差値36の管理人の戯言なので、見当外れ見解があっても笑い飛ばすか、そっと指摘してほしい。
・このページ内、敬称略。

★綿矢りさのプロフィール♪
綿矢りさ
1984〜 わたやりさ。作家。高校在学中、堀田あけみ以来の史上最年少の17歳で第38回文藝賞を受賞し文壇デビュー。 大学在学中に『蹴りたい背中』で史上最年少となる19歳で第130回芥川賞を受賞した。 代表作『インストール』は上戸彩主演で映画化。好きな作家は太宰治、三島由紀夫、村上春樹、村上龍、山田詠美、吉本ばなな、 田辺聖子、京極夏彦など。

★読む前に知っておいて損は無い(と思う……)、作品のおおざっぱ解説。
☆インストール
綿矢りさ17歳時発表の作品。
何もかも投げ出して不登校になった17歳女子高生が
12歳小学生と悪友コンビを組んで風俗チャットの
アルバイトをし、オトナの世界へ挑みます。
小さな冒険譚でもあり、
17歳の少女の成長を描いた青春小説でもあります。
早死にしない限り、誰でも17歳という時を経ます。
17歳に限定せず、青春の年代の持つ希望と閉塞感。
「怒れる若者」の図を、象徴的な現代版としたもの、
という受け取り方も可能でしょう。
軽くて短くて読み易い。でも味がある。
押入のパソコンから垣間見た大人の世界から
「落ち」た時、朝子は、読者は、
何をインストールされるでしょうか?

インストール
インストール


☆蹴りたい背中
「人間の趣味がいい」という悪趣味な女子高生が
奇妙な経緯で仲良く(?)なったのは
しょーもなく変で趣味の悪いオタク少年でした。
蹴りたくなる背中の少年に対する、陸上部の
健脚女子高生の思いは微妙なものです。
蹴るという行為は、相手にダメージを与えるもの。
しかも背中を蹴る、ということは、相手の無防備な
場所に容赦なく攻撃を加えるということ。
それでいて、蹴りが強くなればなる程比例して、
自分の足も痛くなります。
そんなこんながあっても、蹴るからには、相手と
自分の体が触れあうということ。
例によって細かいことを言えば、冒頭の文章は
多少幼いかなという感じも受けますが、
全体としてはきちんと座っていて安定している感じ。
体育座り(文中では三角座り)の文章です。
細かい比喩が巧みで、思わず吹き出したり、
へぇーと唸ったりさせられます。
綿矢りさは『インストール』に続く、これが二作目。
この作品で19歳で芥川賞を受賞しました。
確かに、高校とオタク少年のちょっと変わった家と
その周辺だけが舞台で、世界が狭いとの批判も
ありますが、言うまでもなく、文学で大切なのは
世界の広さではなく、その密度ですので。
お間違いなく。

蹴りたい背中
蹴りたい背中


★KEYWORD「芥川龍之介賞」

綿矢りさの名が広く世の中に知られる契機となったのが、
第130回芥川賞の受賞でした。
数多い日本の文学賞の中で、芥川賞と直木賞は
社会的注目度も高い別格のものです。
綿矢りさを語る際、芥川賞を避けては通れません。
文学に興味の無い人でも名前だけなら知ってる芥川賞。
念のため芥川賞の歴史と概要をおさらいしておきます。


芥川賞 略年表(受賞年は作品発表年度)

1935年 第1回 受賞作『蒼氓』
1935年 第2回 受賞作ナシ
1940年 第11回 受賞作『歌と門の盾』(辞退)
1945年       戦争により中断
1949年 第21回 再開
1951年 第26回 受賞作『広場の孤独』『漢奸』
1953年 第29回 受賞作『悪い仲間』『陰気な愉しみ』
1955年 第34回 受賞作『太陽の季節』
1958年 第39回 受賞作『飼育』
1966年 第56回 受賞作『夏の流れ』
1976年 第75回 受賞作『限りなく透明に近いブルー』
1998年 第120回 受賞作『日蝕』
2003年 第130回 受賞作『蛇にピアス』『蹴りたい背中』

↑誰が受賞者なのか全然ワカランこの表(と表外)から、芥川賞の何が読み取れるかというと……
 ・芥川龍之介を記念して創設された賞。
 ・直木賞と並び、日本で最も古く、権威のある文学賞。
 ・選考対象は、純文学系、無名または無名に近い新人の作品。
 ・戯曲、同人誌の作品も選考対象。
 ・年二回選考実施。
 ・選考の結果、該当作ナシとなる場合もある。
 ・近年はいないが、かつては受賞を辞退した人もいた。
 ・戦争にかかわらず、1944年まで実施されていた。
 ・基本的に受賞は一作品だが、二作品同時受賞もある。
 ・受賞するのは、作者ではなく、作品。
 ・だから、一作者の二作品が受賞することもある。
 ・石原慎太郎、大江健三郎、村上龍など、多くの作家を輩出した。
 ・文学界は地味だが、芥川賞は社会的注目度が極めて大きい。
 ・その割には、あくまでも新人の登竜門だから、水準はそこそこ。
 ・芥川賞を受賞したが、あまり大成しなかった作家も確かにいる。
 ・芥川賞を受賞しなかったけど大成した作家ももちろんいる。

芥川龍之介賞と直木三十五賞の違いはというと……
 ・芥川賞は純文学系だが、直木賞は大衆文学系。
 ・直木賞は実質的には、中堅作家の実績に対して与えられる。
 ・主な選考対象は、芥川賞は短編、直木賞は長編。

芥川賞は候補止まりだったけど、後に大成した主な作家。
太宰治
中島敦
柴田錬三郎
倉橋由美子
渡辺淳一
立松和平
村上春樹
山田詠美
吉本ばなな

上記のように、芥川賞は大きな権威を持った文学賞です。
候補になるだけでも、大きな評価を得たということになります。
綿矢りさはそれを19歳という、史上初の10代での受賞となりました。
従来の最年少記録は23歳で、
石原慎太郎、大江健三郎、丸山健二、平野啓一郎の四名でした。
受賞年齢の若さが、綿矢りさが世間的に注目される理由であり、
私が注目する最大の理由です。
ちなみに村上龍の受賞は24歳で、綿矢りさと同時に受賞した
金原ひとみは20歳でした。
過去のほとんどの受賞者は30歳を過ぎており、
若くして受賞することがいかに大変なことかわかります。
過去の若年受賞者の顔ぶれを見ると、芥川賞の歴史の中でも
特筆すべき重要な作家ばかりです。
綿矢りさはこれらの大作家を追い越す可能性を秘めているのです。
もちろん、あくまでも可能性です。くどいようですが、
その可能性を応援しよう、というのが当ページの趣旨ですので。

★ヴィジュアル系の系譜
第130回芥川賞は、金原ひとみと綿矢りさの受賞で、
社会的にも大きな話題となりました。
だが残念ながらそれは、作品の内容が
話題となった訳ではありません。
注目されたのは、史上最年少受賞という二人の若さ。
そしてそれ以上に、二人ともそれなりにかわいい、
というヴィジュアル面でした。
近年の日本では、本来ならば見た目など二の次の
専門職において、ヴィジュアル系化が著しく
進行している、という印象を受けます。
確かに見た目は、悪いよりは良い方が嬉しい。
でもその傾向が行き過ぎて、本職の質が低下
してしまったら、本末転倒です。
作家であるならば、本来は作品の善し悪しのみで
論じられるべきですが、金原ひとみ、綿矢りさの場合
避けて通れないので、ヴィジュアル系の歴史について
まとめておき、その是非と今後の方向性を検証します。


アイドル
検証するまでもないけど、一応確認です。
アイドルは見た目こそが全てです。
顔のかわいさ、胸の大きさ、癒し系の雰囲気、など、細かな
種類はあるようですが、要は見た目。歌を歌ったり
ドラマに出演したりもあるけど、メインはやはり見た目を
ウリにする仕事でしょう。
ただ見た目だけのアイドルは長続きしません。
若い子が次から次へと出てくるし、ファンも目移りします。
そのアイドルの熱心なファンというのは案外少なく、
「アイドル」が好きな人が多い。だから新しい人が出てきたら
簡単にそちらに乗り換えることが多いようです。
長い間生き残ったアイドルというのは、歌手、役者、タレント
としての地位を確立した人です。純粋に、見た目の良さだけで
長続きするアイドルは存在しないと断言していいでしょう。

アナウンサー
いわゆる「女子アナ」。昔はアナウンサーと言えば、知性。
さすがにブサイクな人はいなかったし、清潔感があって
それなりに整った顔立ちの人が多かったけど、
アイドル顔、かわいい、美人というのはいなかったような……
現在のアイドル的女子アナのはしりは
後に貴乃花と結婚するあの河野景子あたりでしょうか。
最近ではもはや、女子アナはヴィジュアルもアイドル並みが
当たり前になっているようです。それどころか
安住紳一郎の出現で、男性アナウンサーもアイドル化しないとは
言い切れません。
とにかく、ニュースの原稿がちゃんと読めれば、
アイドル化しても構わないんじゃないでしょうか?

声優
1990年代に入ってからでしょうか。
アニメの世界は大きく変わりました。
それ以前は、アニメと言えば明らかに子供向けメディア。
それが、マニア向けの作品が多くなりました。
もちろんTVアニメは子供が観ることも考慮した内容ですが。
OVAではほとんど完全にマニアが対象です。
主題歌も、従来は作品に登場するヒーローの名前を
選挙カーのごとく連呼するものでしたが、
90年代からは普通の歌としても聴けるものが増えました。
歌う人の幅も広がり、従来通りのアニソン専属歌手、
Jポップの有名アーティスト、マイナーなロックバンド、
作品にも出演している声優などなど、様々です。
90年代に入ってのアニメ界の最大の変化は、
声優のアイドル化でしょう。はしりは林原めぐみ。
その後も、声優本業以外に、歌、ラジオDJなど、
幅広く活動する人が出現しました。
女性声優に限らず、男性もアイドル化しています。
声優アイドル化の風潮、これはこれで良いのでは?
声優の本業を大事にしつつ、実力のある人は残るし、
そうでない人は飽きられ淘汰され消えていくでしょうから。

ヴィジュアル系ロックバンド
GLAY(←グレイで変換できる)や、
L'Arc-en-Ciel(←ラルクアンシエルで変換できる)など。
歌手というのは結構ヴィジュアルも重要です。
ライヴやプロモーションヴィデオやTVの歌番組など。
露出の機会は多いので。
ロックバンドだけではなく、演歌なら氷川きよし、等。
歌手の場合、ヴィジュアルも重要だけど、
純粋な歌の才能が本当に優れていれば、
仮に見た目がイマイチであったとしても通用する、
ということでしょう。

クラシック音楽
竹松舞、上松美香、高木綾子、LYNX、BOND、佐渡裕……
他にもたくさんいて書き切れません。
例えばの話。
「アイドル」が歌を歌ってCDを出せば、それなりには
売れるでしょう。タイアップがあればかなり売れるかも。
でも、その「アイドル」の特技がピアノだったとして、
ピアノのCDを出して売れるでしょうか?
その「アイドル」の熱烈なファンは当然買うでしょうが、
そこそこファンだけどピアノに興味は無い人は買わない。
全体としてはあまり売れないのでは?
乱暴なことを言えば、歌ならば、素人に毛が生えた
程度であっても、巧く立ち回れば通用するけど、
楽器は本当に実力が無いとムリ。
少なくとも買い手の側も音楽が好きでなければ
器楽曲は買う気は起きないでしょう。
ちなみに、あの小泉純一郎もLYNXのファンだとか。

スポーツ選手
サッカーのイングランド代表ベッカム。
トルコ代表イルハン。
韓国代表安貞桓(←アンジョンファンで一発変換!)
2002年W杯の時に日本代表キャプテンの宮本恒靖。
野球なら新庄剛志。
もちろんスポーツ選手の場合、どんなに顔が良くても
プレーが悪ければそもそも有名にはなれません。
これらの選手は、だからプレーも当然良いのですが、
プレー以上にルックスやファッションなどが注目を
集めているようです。
サッカーは知らないけどベッカムファンだという人。
そこからサッカーに興味を持つならまだいいのですが、
あくまでもサッカーは無視してベッカムだけ、
というのはどうでしょう?当然個人の自由ですけど。
スポーツ選手は、現役選手として活躍する期間が短い。
だから引退後のことを考えると、ルックスであろうと
何であろうと、利用できるものは利用しても
許容されるのではないでしょうか?
プレーに支障が出ない範囲で。

文学
こういった流れが海嘯となって文壇にも
ついに波及してきたのでしょうか?
金原ひとみ、綿矢りさの出現は
文学界の某モーニング娘○(←そこが伏字かよ)
と騒がれています。
今後心配されるのは、
作品の内容ではなくルックスで勝負しようとする
不届き作家もどきの出現と、そういう路線で
売ろうとする出版社の出現でしょう。
ルックスで押すなら、最初から純然たるアイドル
を目指すべきでしょう。
アイドルになるために小説を書いたのではないので、
金原ひとみ、綿矢りさの二人はこれには該当しません。
芥川賞受賞の二人が、偶然、それなりにかわいかった
という、結果論ですので。
今後どうなるかは不透明ですが。

お笑いコンビ
総ヴィジュアル化の風潮の中で、ヴィジュアル系の
出現がちょっとあり得なさそうなのが、お笑いコンビ。
まず、大部分が男性ですし。
その男性にしたって、ジャニーズ系なんて人は
まずいません。美形より、ちょっと個性的な見た目の
方が、人気を博しそうです。
以前、パイレーツが「だっちゅーの!」で
流行語大賞に入ったことがありますが、
その時点ではお笑いコンビというより、
巨乳系アイドル的存在だったように見受けられます。
若手お笑い芸人は、ギャラが極めて安いと聞きます。
アイドル級のルックスを持っているのなら、
儲からぬお笑いをするよりアイドルになった方がいい。
アイドルとしてバラエティ番組に出演して、そこで
お笑いトークをすればいい、というのが結論でしょうか。
「ヴィジュアル系って、ちょっとどうなのよ?」
という業界から、これまで散々ヴィジュアル系が
出現してきたのですから、かえって、お笑いの中から
ヴィジュアル系に出現してほしい気もします。
アイドルに転向せず、あくまでもお笑いとして。

売り手側も、商売ですから、綿矢りさのヴィジュアルを
利用して売りたいという気持は理解できます。それを求めている
消費者も実際に存在しているわけですし。
私の個人的意見としては、アイドル化せずに、あくまでも作家の
スタンスを貫いてほしいと思います。
写真集やカレンダーを出すくらいなら、写真多めのエッセイ、
くらいにとどめておいてほしいものです。京都の名所巡りや
太宰治ゆかりの地探訪などというテーマなら興味深いでしょう。
極論としては、小説さえちゃんと書くならば、アイドル化
しても構わないでしょう。歌を歌ってCDを発売するのも
ヘアヌード写真集を出すのも、本人の自由です。
(↑そんなことは絶対にしないと思いますが……)
ただ一つ、これだけは絶対にやってほしくないのが、
駄作小説の量産。
これは編集部側にもかかわる問題ですが、近年、出版数を
増やすため駄作の小説を垂れ流しする傾向があるようです。
それをやってしまったら、芥川賞や100万人以上の読者に
対する裏切りとなってしまうと思います。後世、
「芥川賞の堕落は第130回の綿矢りさから始まった」と
言われてしまいます。多少スローペースであっても、
芥川賞授賞式での言葉の通り「言葉の前で迷いながら」
質の高い小説を世に問い続けてほしいものです。

★綿矢りさ作品切開手術図
前置きが長くなりましたが、ここからが本項の本題。
個々の作品について詳細に、その魅力に迫ってみます。
水をのぞき込むと、光の屈折で底が浅く見えます。
綿矢りさの小説について、作者のルックスや若さを理由に
実際は大したことないと批判する声もあります。そういった
屈折した先入観で綿矢作品という水色の世界をのぞき込むと、
確かに底が浅く感じられるかもしれません。
本当にそうでしょうか?斜め上から見下ろすのではなく、
水色世界に飛び込んで、その深さを実感してみたいと思います。

ネタバレ警報

作品を未読の方はご注意ください。


☆インストール

・17歳の筆者が17歳の主人公を描いた等身大の青春小説。
優れた作家であれば、その作家本人の性別や年齢や人生経験などに
無関係に、色々なキャラクターを生み出すことができます。
でも、やはり作家≒キャラクターであればある程、キャラクターに
リアリティが出てきます。特に作家の年齢というのは重要で、
生み出す小説は作家の年齢なりのものになるのが普通です。
30歳の作家が17歳の主人公を描くのは不可能ではありません。
自分も17歳を経験しているのだから、未知の世界ではない。
でもどうしても、30歳という大人から17歳というワカゾウを
見下ろした視点で描く形になってしまいます。
でもでも、17歳くらいの年頃って、大人からそうやって
見下されるのが無性にもどかしく苛立たしかったのでは?
17歳くらいの読者が共感できるような、真に迫った17歳の
キャラクターの気持を描き出すには、17歳の作家が必要なのです。
悲しいかな、17歳で作家になれる人はまず存在しません。
てにをはが正確な文章を書く力量すら無い人が多いでしょう。
綿矢りさが世に問うた『インストール』という作品は、
17歳の主人公の17の作家による17歳の読者のための小説です。
もちろん、実際に17歳でない読者であっても、17歳の気持を
持っていれば、その瑞々しい青春の姿に共感できるはずです。

・タイトルがイマイチ。
文藝賞の選考委員からも指摘があったようですが、この作品、
『インストール』というタイトルは…………ちょっとどうでしょう?
まぁ、主にターゲットにしている読者が17歳前後だから
「インストール」という言葉を知らない人は少ないでしょうが。
知らない人にとっては無意味に専門用語で親しみが持てません。
逆に「インストール」を知っている人にとっては、内容が
コンピューターに関わることであるとネタバレです。
そして作中でインストールという語が登場するのは結構前半です。
それでいて後半にはもう出てきません。
もっと良いタイトルがあったのでは、と少し悔やまれます。
小説にとって、タイトルは非常に重要です。
それでも、この作品は、『インストール』というタイトルで
命を与えられ、完成形に至っているので、結果オーライでしょう。
あたかも、無名の頃にもらった大きな数字の背番号を背負っていた
プロ野球選手が、実績を残すことによって、その大きな数字の背番号が
その選手の顔となり、ブランドとなり、子供達の憧れとなるように……

・異色コンビによる冒険譚として楽しめる。
読んでしばらく経ってからやっと気付いたのですが、この作品、
池澤夏樹の芥川賞受賞作『スティル・ライフ』とちょっと似てます。
・普通の人である主人公が、ちょっと変わった相棒と共に、
・二人だけのアジトにこもって、パソコンを使って、
・バレたらヤバイちょっと怪しい金儲けを企む。
……いや、だからどうというのではなく、単なる偶然でしょう。
部分的とはいえ、似たような展開をたどったということは、
良い意味で、冒険譚として面白い類型だということでしょう。
小説であるからには、キャラクターの心理の掘り下げも重要ですが
まず面白くなければなりません。単なる精神論だけで終わるなら、
コムヅカシヒどころか大難しい哲学書か、教育勅語でも読めばいい。
この先どうなるのだろう、と読者を惹き付ける魅力的な物語。
それがあるからこそ、小説が必要とされるのです。
『インストール』の場合、その道具立ても実は良くできています。
年齢の差はあるとはいえ、女と男の主役二人組。
それ故に異色のコンビではあるが、二人とも子供であり、
自分たちの背丈より大きい、大人の世界へと挑む。
現実世界のどこにでもいそうな17歳女子高生を主人公にして、
読者の共感を誘いつつ、異世界ファンタジー的要素も強い。
大多数の17歳女子高生は、学校行くのやめたり、何もかもを
捨てたり、変な小学生と組んで風俗チャットをしたりはしません。
二人は押入の奥という秘密基地を作って、様々な「敵」と対決する。
ストーリーの後になるほど、強大な敵が出現してきます。
冒険、と呼ぶもおこがましい、小さな小さな冒険ですが、
朝子とかずよしの二人は、確かな成長を遂げる、という結末。
難しいことは全部棄ててしまって、この部分だけでも楽しめば、
読者が『インストール』と出会い綿矢りさと出会えて、
一部なりとも心が通じ合えたという意義を持つと思います。

・世界が狭い。
17歳の女子高生の一人称で描かれた小説だから、世界が狭くても
いいといえばいいし、描写上は狭くなって当然なのですが。
読者が小説を読む意義というのは、自分の経験とと似たような
世界を追体験することによって、自分の精神的居場所を
確認することが一つ。そしてもう一つの大きな意義は、
自分が体験したことのない世界を小説の中で見聞し、
一部なりとも吸収し、己の糧とすること。
インターネットの風俗チャット、という「大きな世界」
との接触はありますが、普通の17歳の女子高生の目線で
見える世界だけで完結しちゃってます。
たとえ主人公が17歳女子高生であったとしても、もっと
世界を広く描くこともできるのではないでしょうか?
「じゃあ、どうやって描くんだ?」
と私に聞かれてもワカリマセン。それが分かるくらいなら、
私が綿矢りさになりすまして芥川賞でもノーベル文学賞でも
何でも狙えばいいんですから。

・平凡で個性的なキャラクターたち☆
平凡と個性的って、なんか矛盾しているようですが、
登場人物たちはみな、どこにでもいそうな平凡人です。
どんな平凡で何の取り柄も無い人間でも、個性があります。
平凡個性的、矛盾を巧く並立させています。各登場人物間の
距離感や力関係も巧妙であり、その中に痛烈な批判や
滑稽さなども潜んでいるような気がします。
また、名前も、その人物を象徴的に表しています。
・朝子:読み方は「あさこ」でいいはずです。
「ともこ」のような特殊な読みではないでしょう。
「あさ」なので、底の浅さを思わせます。それでも
「亜沙子」「麻子」などではなく、あくまで「朝子」。
これから明るい一日が始まる、という希望を
秘めている、と感じさせる名前です。
この主人公の朝子、普通の17歳女子高生でなければ、
大抵普通の人である読者は共感できません。でも朝子は
普通じゃありません。冒頭の場面でダメ出しする、心に
抱えた悩みは、普通すぎて鼻で笑ってしまうほどです。
その後が普通じゃない。何もかも投げ出したくなった
からといって、本当に机も扇風機もバガボンドも捨てて
しまうのは、普通でしょうか?そして最後には、若さも
金も時間も投げ出してしまいます。そのくせ、最初に
投げ出したはずの物質的な物を欲しがる所がご愛嬌ですが。
・朝子の母:他人に対して容赦無く厳しい鬼の母。
この物語における、朝子にとっての最終面のボスとなります。
当然最強です。それでもこの母こそが、登場人物の中で最も
常識人であり、良識人であり、地道な努力家です。
母子家庭でありながら、娘をかけもちで予備校に通わせる。
そのためには、よほど頑張って稼がないとなりません。
夜中の騒音など、マンションの他の住人への気づかい。
自治会への積極的な参加。おすそわけへの返礼。
まぁこの辺は些細などうでもいいことですが。
一番大事な場面で、きちんと真実を見極めています。
朝子の部屋については叱らなかったが、学校については
厳しく注意しました。何もかも投げ出してすっきりしたい、
という娘の気持も、理解できたのでしょう。
物なんか無くたっていい。どうしても必要ならまた買える。
だけど学校へ行かないのはまずい。物のように簡単には
取り返しがつかない。松本さんのようになってしまう。
もちろん、学校へ行くだけが人生の正しい道というのでは
ないけれども、本気で学校以外の道を模索するのならば、
登校拒否ではなく、退学すればいいのですから。
母に老いの翳りが過ぎり、鬼の目に涙を発見した時、
娘は成長の階段を一段上がります。
親を他人と思うこと、親を客観的に見ること。子供が
自分のワガママばかりを主張するのではなく、一個の
別の人格である親が、自分と同じように痛みや苦しみを
抱えた生身の人間であると悟る。そこから、子供から
大人への脱皮は始まるのですから。
・光一:名前からして、良心、正義感の象徴のようです。
作品の中にあっての光一の役割も、まさにその通りです。
どこへ行っても、真面目な優等生タイプの人はいますが、
光一は一筋縄ではいきません。
付き合っている彼女「ナツコ」が、まず普通じゃない。
しかもその彼女を、ことあるごとに批判的に引き合いに出す。
本当に好きで、真面目に付き合っているんでしょうかね?
海外の猟奇的性犯罪の事情にも何故か通暁してるのも脱平凡。
志望校が早稲田というから優等生に間違いはないのでしょうが、
志望動機は「宇多田ヒカルに憧れて」。不純です。
実際に早稲田に入ってから「宇多田ヒカルはコロンビア大」と
知ったら、どう思うのでしょうか?
優等生の、意外に滑稽な側面を表す描写ですが、実は現実を
映す鏡となっています。
「広末涼子がいるから早稲田」
という志望動機の人、案外少なくないのでは?そして次は
「綿矢りさがいるから早稲田」
でしょうか?早稲田受験する程優秀なのですから、もちろん
それだけが動機ということはないのでしょうが。
よく考えてみれば、朝子を一カ月の長い放課後へと唆したのも
現実へ「落ちる」よう助言したのも光一。
閉塞した朝子を救ったのは、かずよしよりも光一なのかも。
・聖璽:物語のターニングポイントで対峙する中ボス的存在。
朝子は二度までもボロボロにやられて、かずよしの助力で
やっとクリアします。セイジというチャットネームについては
作中で解説されている通り。相当頭も良いようで、朝子の
正体をほとんど正しく見破る鋭さを持っていますが、マヌケです。
雅でさえ、かずよしがネカマと見抜いていたのに、セイジは
かずよしに完全に騙されていました。エロチャットで堕落論
なんてやってないで勉強すべきでしょう、浪人なんだし……
あり得そうな恐ろしい想像ですが……来春、朝子とセイジ、
同じ大学に入るという可能性があるのでは?
セイジは頭は良いけど勉強してないし、朝子は頭は切れるとは
言い難いが、歴史上の人物を何百人も暗記できる新鮮な脳で、
これから受験勉強に前向きに取り組むでしょうから、同程度の
レベルの大学に行くかもしれません。
授業でたまたま二人が近くの席に着き、ふとしたきっかけで
セイジが鏡花のキーワードを口走り、それを耳にした朝子が
戦慄にのけぞる……そうなったらどうする?朝子。
・青木夫人:『インストール』で名前がフルネームで出るのは
宇多田ヒカルや平井堅といった芸能人を除けば、朝子、かずよし、
そして青木夫人です。とにかくダメ人間のカガミです。
名前がかより。かよわい、に通じ、たよりない、に通じます。
電線の正式名称が分からないのは仕方ないとしても、自分の
職場の用語くらいは自信を持って言いましょう。
引っ越してきたばかりで、その職場でも働き始めたばかり
というのはあるでしょうけど。
子供がほしいのなら、夜の営みにも気をつかうべきでしょう。
上は何故か派手なブラジャー、下は地味な普通のパンツでは、
ちょっとどうでしょう?せめて上下セットを着けるべきでは?
でも派手な下着はかずよしを苦しめるし(青木夫人は気付かない
けれども……)、どちらに転んでも気の毒ではあります。
朝子に感情移入して読んでいる読者には気づきにくいのですが
「かずよしが楽しければそれで良い」という青木夫人の台詞に、
単純でありがちではあるけど、微妙にせつない気持がたくさん
溢れています。義母の自分にはなかなか心を開いてくれない
かずよしが、何故か朝子とは仲良くなっている。複雑です。
男の子ができれば、かずよしとも打ち解けられるはずです。
・ナツコ:ダメ人間その2。五十歩百歩でいうと、
青木夫人が五十歩でナツコが百歩です。
先生なのに、名字が出てきません。名前もカタカナ表記。
本名がカタカナの「ナツコ」だからというのではないでしょう。
「かずよし」というひらがな表記には、親近感を抱かせる
効果がありますが、カタカナは冷たく突き放した感じです。
そもそも、先生なのに、物語の中に一度も登場場面がありません。
誰かの伝聞の中に見え隠れするのみ。ホントに実在人物か?
エロチャットに参加する人々と同じようなものです。
教え子と付き合うのはともかく、光一に散々批判されていて、
その批判があながち間違っていない、というダメっぷり。
光一の口止めにもかかわらず、最後には朝子の母に連絡して
しまいますが、教え子である朝子を心配してのことではなく、
自分の教師としての立場を心配しての行動でしかありません。
そんな先生だから、朝子の母にも当然酷評されます。
ダメっぷりは青木夫人ほどではありません。一度も登場が
無いので、ダメさ加減を披露する場面すら無い、というのが
最も正しい言い方ですが。青木夫人の切実さ、
不器用なりの一生懸命さは、ナツコからは感じられません。
努力してもいないのに、頑張った、忙しい、私の方が大変、
などと言い張り、物事が自分の都合良くいかなかったらすぐに
泣いたりすねたりするタイプでしょうか?
ここまでダメな人間が、まがりなりにも教師が務まっている
という不可思議な事実自体が、特殊な個性といえるでしょう。
高校卒業時点で光一に振られる公算大です。
下手すりゃそれまで保たずに愛想尽かされる危険性も……
・雅:かずよしにエロチャットのアルバイトを紹介する風俗嬢、
というだけの役割で物語の出番を得ているけど、その割には
非常に味わいの深いキャラクターです。
セイジでさえだまされていた、かずよしの正体について、ネカマ
であることには気付いていたのです。女のカンにしても凄い。
本番だけでなく、律儀にチャットの仕事までしようとするのだから
ある意味仕事熱心です。他者に回すのはちゃっかりしているが、
その分の稼ぎはちゃんと働いた人に(ピン札で)支払う真面目さ。
風俗嬢から落ちて、現実世界の子育てへ……というのは、この
小説の基本構造を補完するものです。
ネット上の雅は、裸エプロンにしんなりしたおっぱいの
エッチな写真だけど、現実に会ってみると普通の人だった。
ということで、風俗嬢という仕事をしている割には、
全体的には汚れた感じを抱かせない好人物です。
セイジはチャットで二人の偽みやびと話しましたが、実際に
店へ行って本物の雅と会ってみるべきだったかもしれません。
本物の、生身の、子を授かった売春婦マリヤを見つけることが
できたかもしれません。
あと、作品を読む上で全く必要の無いムダ知識ですが……
朝子演じるみやびは、乳首の色がピンクだと自称していました。
本物の雅もピンクです。すぐ横に裸エプロンの写真が
出ているんですから、嘘ならすぐバレますし。
(その写真って、当然乳首見えているんですよね?)
朝子が憤るとおり、子持ちの26歳だってまだまだイケます。
・かずよし:例えば。大雑把で乱暴な分類だけど。
金や怨恨で人を殺すのが大衆文学(ミステリーとか)。
空が青かったから人を殺すのが純文学。
この小説を、単なるライトノベル的な大衆文学ではなく、
一応純文学としての深みを与えているのは、
ひとえにかずよしの存在です。
かずよしは、表面的には、ありがちな平凡キャラです。
ちょっと複雑な家庭事情。ちょっと頭が良くて生意気。
子供なのにエロの世界に飛び込む。
でも内面は、純文学系、のキャラクター。それでいて
ロマンチスト。エロの世界にしても、エッチな目的で
入るのではなく、大人からぶつけられるのを事前に
防衛するため、という消極的理由。
倒れている人を心配して声をかけるくらいだから、
単純に優しい良い子ではあります。
物語全般を通じて、朝子の場合は自分の気持ちの問題
だけで手一杯で、かずよしやその他の人物に対する
気持というのは、無い訳ではないが、少ない。
それに対してかずよしは、自分の問題はすなわち、
他人に対する複雑な感情に他なりません。
青木夫人に対する気持ち、朝子に対する気持ち、セイジに
対する気持ち、その他チャットの男たちに対する気持ち。
かずよしは主人公ではないので、これらの気持はほとんど
描写されてはいないのですが、行間から浮かび上がります。
かずよしを主人公に据えて、名前を漢字表記にすれば、
本格的純文学小説が一本書けそうなくらいです。

・エロチャットのマル秘テク公開!
朝子とかずよしはインターネットでエロチャットをします。
最初不慣れだった朝子もコツをつかみ、実践理論を構築します。
雅がもだえている図、を想像させる言葉がウケる、というのは
納得できます。だけど朝子が良い例として出した言葉の一つ、
「今までそんなやらしいこと言われたことなかった」
は、どうでしょう?もだえている雅、想像できますか?
私はできません(←想像力よわ)。同じ内容のことを言うなら
「今までになくHなこと言われて、みやび、もうアヘアヘ」
といった感じの方が良いのでは?
まあ、朝子は処女ということもあるし、分析も必ずしも的確とは
限らないでしょう。しかしかずよしまでもが、朝子のその分析に
特には異を唱えないというのは……結局のところ、作者の想像力が
エロチャットの深部まで及ばなかったということかもしれません。

・野田朝子容疑者(17)の不完全犯罪。
最終的には青木夫人のようなダメ人間にまで、朝子の不法(?)侵入
はバレてしまいます。(←まぁ、バレる方が普通なのですが……)
理由がコーラというのは、全く意外でした。自分でお弁当まで
作ってくる用意周到さだったのに、他人の冷蔵庫のコーラを
飲んでいたとは……この辺の詰めの甘さが、さすがに朝子の底の
浅さということでしょう。
私はトイレットペーパーの使用量で発覚すると思っていました。
4時間も押入の中に引きこもっていて、運動不足で汗をかかないし、
その上コーラを飲んでいるのだから、トイレが近くなるはずでは?
松本さんのトイレネタも伏線になりますし。
慣れた後はそれ程でもないかもしれないが、エロチャットでぬれて
いるのもふき取りたいだろうし……
何故綿矢りさは、バレる原因をコーラとしたのでしょう?
・綿矢りさ自身、トイレットペーパーまで注意が回らなかった?
・朝子の詰めの甘さを演出するため?
・ペーパーの減りが早いことに、ダメ人間青木夫人は、気付かない?
・ペーパーなら「朝子のためだけに」買い続けたことにならない。
結局、最後の理由が最も妥当なような気がします。

・どうでもいいけど気になる品物の行方。
・ピアノ:老人ホームで大活躍。朝子がその情報をどうやって
知ったのかの方が気になるところです。
・机:インターネットのオークションで買うよりも、元から自分が
使っていた物を買い戻した方が良いのでは?それとももう、どこかで
新たな居場所を得てしまっているか?
・図書券一万円分:バガボンドの続刊、ハリー・ポッターの続刊……
かずよしは本もマンガもかなり読むようなので、使い道に困ることは
ないでしょう。物語の時点ではまだ発表されていないでしょうが、
将来的に、金原ひとみの『蛇にピアス』や綿矢りさの『蹴りたい背中』
なんて作品も読むことになりそうです(笑)。
私は最初は分からなかったのですが、ハリー・ポッター
はかずよしの本です。全部捨ててしまった朝子の本ではあり得ない。
青木家のコーラは飲むし、本は読むしで、朝子はやりたい放題ですな。
・もらったパンツ:小分けにして可燃ゴミに出すしかないでしょう。
エロチャットに慣れた後の朝子なら、ちょっとはいてみようかな?と
試してみたかもしれません。自分のパンツがぬれるのは嫌だろうし、
勝負パンツをはくことによってエロ気分を盛り上げ、風俗チャット嬢
としてよりよい仕事をする役にも立つはずです。
そういうパンツに対する純粋な好奇心も当然あるでしょうし。
・かずよしの15万円:朝子は色々買うべき物があるから、15万円など
あっという間に使い切ってしまうでしょうが、かずよしは?
タイムマシン、買っちゃいそうです。それでもまだ6万円も余る。
使い道はよ〜く考えよう。お金は大事だよ。

・『インストール』は純文学か?
それ以前にそもそも純文学って何よ?という疑問があります。
はっきりした定義って、恐らくは不可能でしょう。
まぁとりあえず仮に、過去の芥川賞受賞作のような路線、
としておきましょう。あくまでも便宜的定義ですが。
『インストール』は文藝賞を受賞し、三島賞の候補にも
なっています。だからやはり純文学ってことになってます。
されど『インストール』に登場する純文学的キャラクターは
かずよしのみ。それでいて主人公朝子の一人称小説ですから
純文学性は低いと言わざるを得ないです。文藝賞はともかく
三島賞はそれで落選しましたし。
じゃあ直木賞に代表されるような大衆文学かというと、
それもちょっと違うような気がします。強いて分類するなら
一番近いのはライトノベルでしょうか?
良く言えば、既存のジャンルに分類されない新しい作風、
との解釈も不可能ではありません。

・かずよしがひらがな表記のワケ。
この問題は難しいようで簡単なようで難しいようで……
どうしても読者は、作者=朝子という目で見てしまうので
作者的理由と朝子的理由がこんがらがってしまうのです。
作者=綿矢りさであり、綿矢りさ≒朝子ではあるけど、
綿矢りさ=朝子ではありません。
作者と朝子を分けて考えれば、朝子的理由に関しては
簡単です。作中に答えが明記してありますので
(私は三回読むまで気付けなかったけど……)。
朝子にとって、小学生=名前ひらがな、のイメージが
先入観としてあるのです。チャット男たちについて、
「小学生みたいなひらがなの名前」と評しています。
実際のところ、チャットにおける男たち(セイジ以外)の
精神レベルは、自称忙しいビジネスマンであろうと、
小学生と大した違いありません。話題がエロなだけで。
また、青木家の表札は「AOKI」であり、かずよしの
名前の漢字表記に触れる機会が少ない。
部屋の私物から、漢字を知ろうと思えば知ることも
できるのだろうが、プライバシーを侵害してまで知る
必要は無く、ひらがなのかずよしでも事足ります。
朝子は自覚している通り、プライバシーの意味を
勘違いしているし、とっくに色々と青木家の
プライバシーを侵害しまくっているんですけどね。
一方、作者的理由は、明確な答えが書いてある訳では
ありません(つまり私にはワカランということ)。
ただ、漢字ではなくひらがなにしたことにより、
独特の軽快な味を醸し出すことに成功した……
その事実だけで充分だと思います。

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ネタバレ警報

作品を未読の方はご注意ください。

☆蹴りたい背中

・タイトルが会心の一撃の蹴り。
『インストール』はタイトルに若干の不満要素を残しましたが、
第2作目は欠点を克服して余りある秀逸タイトルとなりました。
この作品、当初は『ファンの不安』という駄洒落タイトルを
綿矢りさ本人は考えていたようです。書き進める中で、背中、
が重要だと気づき、『蹴りたい背中』としたとのこと。
この『蹴りたい背中』というタイトルが無ければ、一体何人の
読者が、本作品における注目点が背中であると気付けたか?
恐らく、私ならば気付かなかったでしょう(痛っ)。
これに気付いたのだから、綿矢りさの読者としての慧眼は
優れたものです。しかも自分の書いた作品で気付くのですから、
物事を客観的に冷静に見る目を持っているということです。
ちなみに綿矢りさは、高校の授業で、
はやりやまいはやはりやばい
というコピーを作ったとのこと。駄洒落が好きなのでしょうか?
ダジャレという形ではないにせよ、そのユーモア感覚は、
綿矢りさ作品の随所に現れ、まるでシナモンかハッカのように、
軽くて爽快でありながら引き締まった刺激を与えてくれます。
全然余談ですが、『インストール』でも、朝子がかずよしや
青木夫人の背中に目を向ける場面がありました。猫背背中に
体当たり攻撃まで仕掛けています。
よくハードボイルドで「男は背中で語る」なんて言葉が
出てきますが、綿矢りさ作品の主人公は他人の背中から発される
無言のメッセージを受け取る敏感なアンテナを持っていて、
攻撃するというのはその背中との独特のコミュニケーション
ということになるのでしょうか?

・蜷
オタク少年にな川クンの漢字がコレ。漢字辞典で調べた意味は、
1:虫が体を屈折させて行くさま。
2:かがまる、曲がる。
3:タニシに似た黒い細長い淡水の貝。食用にもなる。
蜷川、という名字は、曲がった川、あるいは蜷のいる川、という
意味でしょうか。全国の実在の蜷川さんには悪いのですが、
あまり良いイメージではなさそうな……
何故、鈴木や佐藤といった無難な名字にしなかったのか?
それじゃあやっぱりインパクトがなさすぎだからでしょうね。
蜷川という(失礼ながら)良くないイメージの名字がツボハマリ。
にな川は変わり者という設定だから、ありふれた名字では
困ります。例えば、川つながりで、ヒロインを蜷川にして、
彼を長谷川にしたとしたらどうだったでしょう?
…………ヒロインの名字は我慢できるとしても、やはり
彼の名字は合わないような気がします。サザエさんの貝殻に
無理矢理蜷の中身を押し込んだかのような違和感です。
それと、作者が最初から意図していたのではなく、偶然の結果
だと思われますが、かがまる、曲がる、という意味が、彼の
「蹴りたくなる」猫背の曲がった背中を象徴しているようです。
にな川は「にながわ」でもなく「蜷川」でもなく「にな川」です。
もちろん主人公がこの難しい漢字を知らず、覚えようともしない
からです。物語前半では、この表記がある意味当然ですが、
中盤から後半、彼に対する気持が揺れ動くにしたがって、この
中途半端なひらがな漢字表記が心理描写の一端とすらなります。
鈴木、佐藤、長谷川、蜷川、にながわ、等に置き換えてみると、
読者に対して与える彼のイメージが大きく変わってしまいます。

・長谷川初実かく語りき。
どうしても『インストール』との比較となってしまうのですが、
『蹴りたい背中』の文章は、前作とは大きく違います。
両作品ともヒロインの一人称の形式ですから、言うまでもなく
語り手が別人であるからには文章も変わって当たり前です。
ハツの言葉は、読み易さの中にも、重みもあり、微量の
ユーモアと社会風刺がスパイスとなっています。各所に
ちりばめられた比喩も巧みです。いかに内向的な純文学向きの
キャラクターとはいえ、高校に入ったばかりの15歳の少女の
言葉とは思えません。『インストール』の朝子の言葉は、
17歳の等身大、という感じだったのですが……
こんな成熟した(とゆーか初実という名前と矛盾するイメージ)
15歳の女子高校生がいる、ということにしてもいいでしょう
(その場合、ハツは平凡人ではなく、ちょっと特殊な人物、
という設定、ってことになってしまいますが)。
ハツの設定がどうであれ、確実にいえそうなこと。
作者綿矢りさの文章力が、『インストール』の時よりも、
遥かにアップしているということです。
文章を書くというのは、駄文で良ければ誰でも書ける簡単な
ものですが、良い文章を書くというのは極めて難しい。
(この項の文章読めば駄文ってどんなもんか実感できるし)
そしてまた文章力って、持って生まれた才能に負う部分が
大きく、努力により伸びる部分は、無いわけではないけど
少ないものです。だから文章のレベルアップは凄い。
もちろんこれは『インストール』との比較の話であって
絶対的にそこまで優れている、とまでは言い切れませんが。

・ベランダのラストシーン。
にな川の家、というよりにな川の部屋のベランダで、この
物語は余韻を残して閉じられます。何故ベランダなのか?
にな川、ハツ、絹代の三人は、にな川の部屋に泊まることに
なります。ところが部屋の主であるはずのにな川は、部屋
から追い出されます(半ば自分の意志で退出するのですが)。
部屋の中はエアコンも効いていますが、ベランダはその
エアコンの熱風が吹き付ける劣悪環境。続いて、ハツも
自らの意志でベランダに出ます。そこににな川が居ると
知った上で。部屋に残ったのは絹代だけ。にな川の部屋に
最も縁の薄い彼女は、風呂にも入って熟睡モードです。
部屋とベランダは、作品の主題の縮図になっています。
部屋は世間、またはグループ。ベランダは余り者。
(私がこのことに気付いたのは読了後大分日が経ってから。)
部屋にいれば、つまり世間に合わせて、グループの中に
身を置いていれば、とりあえず絹代のように熟睡できて、
高校生活も楽しく送れます。
にな川もハツも、あえて自分の意志で世間と距離をとり、
グループの中で群れるという選択肢を選びません。
じゃあ、ベランダという厳しい環境で一緒になった
ハツとにな川は、二人組の男女混合「グループ」か?
陸上部に所属するハツは、陸上部のメンバーたちと
「グループ」なのか?……答え:違うでしょう。
ハツは孤独にはなりたくない。でもだからってグループで
自分を偽って薄まりたくもない。そこが自家撞着。
ハツとにな川で二人のグループになれれば話は早い。
付き合うなりセックスするなりすればいい。
だけど実際はグループになりたがらない二人。「偶然」
同じ居場所に流れ着いただけのこと。だから後日仮に、
二人が付き合うことになったり、セックスしたりしても、
それは世間一般の価値観で言うところの「恋人」とは
大きく乖離した実態ということになります。
第三者の目(例えば絹代)から見ると、二人は普通の
恋人に映るのでしょうが、部屋で愛を語る恋人はいても
ベランダで愛を語る恋人というのは「?」です。
とゆーわけで、ベランダという場所が、ハツとにな川
の付かず離れずの微妙な距離感と今後の方向性を
象徴的に語っている、と私は思うのです。

・『蹴りたい背中』は純文学か?
『インストール』と同じようなことを言わねばなりません。
そもそも純文学って何よ?という疑問があります。
はっきりした定義って、恐らくは不可能でしょう。
まぁとりあえず仮に、過去の芥川賞受賞作のような路線、
としておきましょう。あくまでも便宜的定義ですが。
で、『蹴りたい背中』は芥川賞を受賞したわけですから、
チャンピオンベルトを巻いた純文学、のはずなのですが……
確かに『インストール』よりは純文学寄りでしょう。
ハツもにな川も、まぁ、純文学の匂いが幽かに漂う
キャラクターではあります。一応。
130回を数える芥川賞の歴史の中で誕生した140弱の
受賞作の中で、「純文学性」でいうと『蹴りたい背中』
は、推定130位〜最下位の間くらいでしょう。
(芥川賞受賞作を全て読んだ訳ではないので、推定です。)
じゃあ直木賞に代表されるような大衆文学かというと、
それもちょっと違うような気がします。強いて分類するなら
一番近いのは、やっぱりライトノベルでしょう!
良く言えば、既存のジャンルに分類されない新しいジャンル
を確立した、との解釈も不可能ではありません。
読み易く共感し易い純文学。または、純文学性を
漂わせるライトノベル。それが綿矢りさ文学。

・賛否両論の冒頭文。
賛否両論と言ってしまえば、『蹴りたい背中』という
作品自体が芥川賞受賞にからんで賛否両論なのですが。
んで、水と油のように賛否が分かれるのが、冒頭の文章。
若い人にとっては馴染み易い言葉かもしれませんが、
選考委員の一人三浦哲郎をはじめとして、頭に入って
こない、と批判する人も多いようです。
私個人的には、作品自体は賛ですが、冒頭文は否です。
やっぱり頭に入ってきませんでした。
さびしさは鳴る。という表現。ひねりを利かせてはあるけど、
純文学でいきなりさびしいとネタバレするのはだめだこりゃ。
まぁ、『蹴りたい背中』は純文学ではなくライトノベル
だからいいんだ、という考え方もできなくはありませんが……
すぐ後に、孤独の音を消してくれる。という文が出現します。
さびしいとか孤独とかいうのをそのまんま言ってしまったら
文学じゃなくなると思うのです。それじゃ、「愛してる」
ばかりの日本のポップスと同じです。
そして、(苦笑)、という表現。メールとかネット上の掲示板
への書き込みで使うなら分かるのですが、小説で使うとしたら
余程の意図が無いとダメです。文章が安っぽくなっちゃいます。
純文学でもライトノベルでも、冒頭の文章というのは大事です。
400字詰め原稿用紙換算で100枚前後という短い作品では当然
として、どんな大長編であろうとも、やはり冒頭の文章には
細心の注意を払います。下手をすれば、冒頭の文章さえ良ければ
途中の文が多少平凡でも、全体としては名文と讃えられます。
でもこれ、書いた綿矢りさの文の甘さもあるけど、この文章に
OKを出した編集部にも問題があるような……
作家を育てるのは何よりまず編集部なのですから、ちゃんと指導
すべきと思います。……ってゆーか、この路線で若者ウケを
狙っていけばおーけー、ということなのかも……

蹴りたい背中
蹴りたい背中


以下工事中


願わくは、綿矢りさ本人がこのページを発見しませんように★

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